『SWITCH!』展 出品者紹介

松本 陵(Ryo Matsumoto)

 僕は美術というものは必ずしも真実のみを伝えるものではないと思っている。「芸術というものは純粋で、素直であるべき」と学校の先生は言うのだが、その観点からみると僕は実に芸術に向いてないのだろうなと思う。

 たびたび僕は意図的に《間違えたモノ》を作品にすることがある。それは図像であったりテーマそのものであったりと作品によってバラバラだ。さしずめ童話の中にでてくる『オオカミ少年』のような立ち回りをあえて創作に組み入れていると言ったところだろうか…。僕がこういった間違えた事象を堂々と取り扱う理由の中に、美術作品が果たす役割として正しい事や真実をパブリックな場で一般大衆に伝えようとするならば芸術はその機能を存分に果たせる時代ではないし、第一“それのみ”が美術であってはならないということがある。そこで僕はあえて間違えたモノを過剰に転化し表現することで、より鮮明に正誤を対比するきっかけのような作品を制作することに重きを置くことにした。正しいものを疑い、否定するのは難しい事だが最初から間違いだらけのものを目の当たりにしてその中から本質的なものを見いだすことは容易ではないとしても前者の葛藤よりは真実に近づけるだろうと思う。

 そういった意味で僕の制作におけるスタンスはこれからも真実の芸術とは表裏の関係を続けていこうと考えている。

毛利 美穂 (Miho Mouri)

 今回展示している「大根畑(大根Ⅰ~Ⅴ)」は、頭を出し始めた収穫間近の大根を題材にしている。大根には単純な白色だけではなく、赤い大根や黒い大根などもあることを最近知り、土から姿を現した大根は、白・赤・黒の他にも様々な色彩に変化した大根があるのではないかと思っている。土の中の野菜を想像すると、私の知らない造形や色彩が埋まっているように思えて面白い。野菜や果物は私たちにとってとても身近な物であると同時に、知らない部分や発見がまだまだ沢山つまった物でもあるのだろう。

私が制作において野菜や果物を題材に選ぶようになったのは、花を咲かせた白菜を見た時からである。ある農家の畑にぽつぽつと点在していたそれは、売り物にならず放置された白菜から花を咲かせていたわけだが、普段スーパーマーケットなどで目にする白菜とは違い、枯れかけの白菜の中心から実に生き生きとした黄色い花を咲かせていたのだった。それはまさに私の知らない白菜であった。その不思議な造形に新鮮さと魅力を感じると共に、白菜の成長の一過程しか認識していなかったことにも気付かされた。野菜といえば売られている状態のものを完成系として想像しがちだったが、実際に野菜を育て成長過程を見てみると、今まで知ることのなかった変化や、個性豊かな色彩に出会うことが出来たのだった。

野菜や植物は日々変化していく。その変化を鮮やかな色や線を用い感じたままに描いている。今まで見たことがなかった野菜の姿を見ることができた瞬間の驚きや魅力を、私は作品で表現したい。

野澤 祐太 (Yu-ta Nozawa)

 私はデフォルメされたキャラクターをもとにした版画を制作しています。世間に恐怖心に抱いているのでどろどろした社会を描いてる。そのどろどろした社会がもつ恐怖と作者自身戦う意味でもデフォルメされたキャラクターやユーモアを交え表現している。

 皆さんは、どんな日常を過ごしていますか?日頃の生活の中で過ぎ去っていく時間。千差万別でありながら、普遍的なサイクル。私自身、現在福岡の地へ来て早5年になります。その5年で得たもの、新しい町、人間関係・・・しかし、この5年間で私の作品制作は沢山の影響をうけながらも根底にある精神は変わる事はありませんでした。私は、日々の生活のなかでふと心に闇が入り込むことがあります。。それは暗く終わりの見えない螺旋階段をただただ下っていく感覚のようなものです。この闇が差し込むことが私の作品の根底に渦巻いているものであり、主な作品で使用しているメゾチントの黒は私の言葉にできない闇を素直に表現してくれるものです。

 暗闇のなかに潜む、何か。近年は暗闇そのものがなくなってきています。しかしその結果機械は果てしなく動くこととなり。多くの方が昼夜の境も分からぬまま働いています。24時間常に明るくなった結果これからの社会はどうなってしまうのか。光があれば影ができる。しかし、その影は内面に侵食していくのです。

 私は日頃からスケッチブックを手に右往左往していますが人をスケッチするわけではなく明るく照らし出された物体や事象を闇に還元するためのスケッチをしています。また、なぜキャラクターになったのか、なぜこの黒にこだわるかは人それぞれ闇の重さ深さは違うものであり(墨なのか鉛筆なのか)このような場では話が飛躍してしまうと思いますので割愛いたします。ただ、キャラクターは人間生活や人間そのものの行為をモチーフにしています。

 

そして僕は銅版画の黒に惹かれています。

久保 英介 (Eisuke Kubo)

私の作品の主なモチーフは少女の形をしたヒューマノイドである。それらの無機質さは人とは一線を画しているようにも思えるのだが、人の形をしている以上、有機的なイメージとは切り離すことが出来ない。その矛盾性に魅力を感じるのである。

器官なき身体という言葉がある。生命活動のために機能する組織を欠いた身体ということで、器官とはあらゆるしがらみ、そして身体は自己そのものであるという意味をもつ。その言葉になぞらえ絵の中の彼女らが腹部を除いた状態であるのは、そこに欠陥性と食事などの欲求が除かれ、特定の器官としてのあり方から何かもっと新しい身体のあり方を求め、いつも変化し解放されていく様を示している。彼女らは全ての生存においての必要が満たされ有機性の強制的な割り当てが存在しない、それは有機物が無機物と化し永遠性を獲得し、そしてなお意識は存在し続けていくことである。この身体の無機物への方向が現在のベクトルとしてあり、それは私の理想でありテーマである。

また、私の作品には異形的な部位が存在するが、仏像には多頭多腕が表され、神話や民話には羽や角を生やした人体からは逸脱した存在が現れることがあるように、カリカチュア的な部位は、私の作品とは切り離せない。こうした神話や宗教、民話などを作品に取り入れるのは、精神の奥底にそれらに対して畏れ以上に憧れがあり、個々に独立性を保ちながらも精神的な部分で繋がっているからである。そして、その繋がりはこれから先の未来であっても切り離せないであろう。

これらの無機的な要素と有機的な要素は一見、相反し矛盾するが本質的には両立し得る。私はヒューマノイドを描くことによって、この矛盾を孕んだ理想的な姿を表現していきたい。

久原 瑛理 (Eri Kuhara)

今回の展示作品はプレーリードッグと、プレーリードッグの見ている世界に注目しました。

 

[ひみつのうらにわ]

 プレーリードッグを動物園で目にしたとき、ぼんやりとした動きと何を考えているのかわからない曖昧な表情が大変魅力的でした。どんなことを考えているのだろうかと少しでも理解するために観察しました。そこで穴の中に潜っていく姿を見て、ふと穴の中はどうなっているのだろうと気になり、「もしかしたら私たちにはわからない、知らない世界に繋がっているのではないか」と考えたことが制作に至ったきっかけとなりました。

 画面上部の地上にプレーリードッグの家族を配置して、中程から下画面にかけて地下の様子を表現しています。上部をプレーリードッグで画面を埋め、そこから下を鍾乳石(鍾乳洞の天井から伸びる氷柱のような方解石の沈殿物)で長く画面をとることで、下に向かって空気が流れていくように表現しました。

全体を黄味がかった暖色でまとめているのは、プレーリーサンという花の色合いを参考にしているためです。

 

[游夢(ゆうむ)]

 プレーリードッグは北米の草原地帯で穴を掘り、土の中で生活しています。そんな彼らがもしも水の中で漂う夢を見ていたなら?という発想を基に製作しました。作品名の「游」とは「およぐこと」、つまり夢の中を游ぐという意味です。「遊ぶ」という字の形と似ているので、「およぐこと」を楽しんでいるという意味合いも込めてこの字を選びました。プレーリードッグのぼんやりとした雰囲気を表現するためにネガ調にして水の中に白く浮かんでみえるように制作しました。

花のような模様を入れることで画面全体に動きをつけています。背景は暖色系の水干の上に墨を繰り返しかけて、深みのある黒を目指しました。胡粉と墨を多く使用しています。

 

[かがみうつし]

 水面を境界に向こう側と手前にそれぞれプレーリードッグがいます。お互いに認識するけれど直接的に触れ合うことはない、「すぐそばにある個々の別世界」をイメージしています。

武田 納穂(Naho Takeda)

私は人がもつ矛盾や相反するものの中に混在する曖昧な感情を日本画で表現しています。今の世の中、膨大な量の情報がすごいスピードで流れていて、人と人は情報を共有し簡単につながりを持つことができますが、とても便利さのなかに息苦しさと虚しさを感じることがあります。そのつながりがとても表面的で弱くもろいものに見えてしまうからです。広いはずの世界が狭く感じたり、有限であるはずの自然や資源が無限なもののように感じてしまう時があります。

そうした現代社会で暮らしていく中で、私自身、個人的な感情でも矛盾を感じるときはたくさんあり、「何が正しいのだろうか?」と悩んだりもします。それでも、そうした矛盾や曖昧さはとても自然で自由な感情だと感じるのは、1つの物事に対して人間の感じ方は毎日変化する流動的なものだと考えるからです。そのような流動的で曖昧な感情を日本画で表現しています。今は日本画の素材を使って平面作品を制作していますが絵画は表現するための1つの手段だと考えているので今後変わっていくかもしれません。

私は作品を作ることで自分と向き合うと同時に、自分(作品)が人にどう見られるかを意識し作品を通して人とコミュニケーションをとりたいと思っています。このことから、私は自分の内面性を伝えたいというより、作品の視覚的な色や形を通して見てくれる人と言葉を交わしたいと思っています。テーマを伝えたいとはあまり思っていません。作品を制作し終わって、作品が誰かの目に触れるときは私の感じ方は私の感じ方としてどこかに置いといて、見てくれる人には自由に感じてもらい、見た時の気持ちによって様々な解釈できるような作品を作りたいと思っています。

内藤 清加 (Kiyoka Naito)

私が作品を描く上で一番大切にしていることは色彩の美しさである。今回出品した3作品は、普段からあまり使っていない色をメインの色として画面を作り、作品のコンセプトも色のもつイメージから連想して決定した。

 

30号の作品「めばえ」は緑青色をテーマとした作品である。緑青色は、青々とした草が伸びていく様な力強い生命力のある色であると感じたため、作品の主題は生命力にした。メインのモチーフには、黄土色の毛の色が草の生命の源である土をイメージすることができるため、羊を利用して書く事を決めた。

最初は羊と草を組み合わせて画面を作ろうとしたが、羊の毛の見た目や、実際に加工し衣類として着るときに感じる暖かさが生命の持つぬくもりを連想させるのに適している要素だと感じたため、シンプルに羊の毛のみを描写する作品に変更した。

描写においてこだわったのは、点描と線描による、耳の下の部分である。最初は、ぬくもりなど生命力の持つよい面を生かした絵にしようと考えたために、穏やかな雰囲気の画面を作ろうとした。しかし、描写をすすめるとともに、生命とは暖かさや、やさしさの一面だけのものではなく、いずれは訪れる死の存在をはじめとして、暗い面を併せ持っているものであるのではないかという認識が強まっていった。その二つの面を表現しないと、主題である生命力を絵にしたことにはならないだろうと思い、絵の中にもどこかしらゾッとする、気持ちの悪い部分を作ることにしたため、この様な描写方法をとった。

 

この作品を書くことで、今後自分がどのようなスタイルで絵を作っていくか現時点での目標が明確になり、自分にとって大切な作品を制作することができたと思う。

舩津 麻理子 (Mariko Funatsu)

 私は今、筋子をモチーフとして用い、そこから着想してヒトの卵子のイメージに発展させた表現をしている。

 「なぜ今自分は生きているのか」という問いかけをするにあたって、私自身が女性という性をもって生まれてきたという先天的要因を無くして考えることは不可能である。なぜならば、個人的にどんな生き甲斐をもっていようが、どんな生き方を目指していようが、生まれもった身体の性質に伴う制約や使命からは逃れられないからだ。人間の女性という性の場合は、生物学的観点から言うと子供を産むという使命を担ってこの世に生を受け、自身の「産む」、「産まない」の希望や意思にかかわらず、「産む」ことを前提に機能して身体が操られるというのは避けられない宿命なのである。私は無意識的に産むことを予期している身体の宿命とそれから生じる性に対する自負心を表現していきたいと考えている。

 モチーフである筋子は鮭の卵巣であり、血管と卵巣膜でつなぎとめられた30005000個の卵のかたまりである。初めてそれを見たとき、過激でグロテスクでありながらも、子を産む使命を担うメスとしての存在や権威を堂々と見せ付けらたように感じた。鮭は一般的に知られているとおり川で生まれ、海で育ち、また川に戻って産卵し一生を終える。メスは海から川へ帰還する間に卵を作るのだが、川についたときに卵が成熟した状態になるよう身体が産卵の時期を逆算して機能する。「体内時計」という言葉があるが、それはまさに卵がやってくるのを予期して、本能的にシステマチックに機能する虚しい身体の宿命といえよう。筋子はその過程においての美しい産物であり、地球上の生命体としての使命を果たし、献身した証である。

 人間の女性にも月に一度28日の周期でくる生理という現象がある。卵子は目に見えない重さもない単細胞であるため、その存在を普段意識することはないが、私自身は毎回この現象を通してヒトの卵が自分の体内にあることを身をもって実感している。胎児になる可能性があった卵子が生み出されては死に、血と一緒に流れて排出されるこの生と死のサイクルが1つの身体の中で起こっていることに感動を覚える。宇宙との一体感を感じるとともに女という性を誇らしく思う瞬間である。

 今は忙しい日常に飲み込まれ、女性に限らず現代人の体内時計は狂い始めている。 生を根源的に見つめなおす余裕もなく、本来の使命を身体が忘れかけている危機的状態にある。人の命の根底で共鳴する絵を描いていきたい。